教会の交わりにおける魂の配慮

「教会の交わりにおける魂の配慮~特に心病む人々への理解について」 阿漕教会牧師  加藤 幹夫

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
(申命記6章5節)

この聖書の言葉は、人間とは「心」と「魂」と「力(肉体)」によってなるという意味を持たせつつ、これらすべてが神に向かって生きるように伝えています。

「心」「魂」「肉」の三つは、互いに関係し合っています。魂が病めば、精神的な心の病にかかります。また、心が病めば身体的な不調が現れてくることもあるのです。この三つは関係しながらも事柄を分けて考える必要があるのです。特に「心」と「魂」は、聖書において意味を分けて考えています。「魂」は、人間の創造と深く関係しています。神が人を形作り鼻から命の息を吹き入れ、人は生きる者となりました。神の息が吹き入れられたがゆえに、人は、神と呼吸し、神と対話し、祈るのです。このことなしには真実に生きることはできないのです。これに対し「心」は感情にも関係してくる言葉で、人間だけでなく動物にもあります。動物であってもノイローゼやうつ的になります。しかし、動物は神に祈ることはしないのです。

心病む人々と関わりを持つ上で、この「心」と「魂」の問題をきちんと分けて考えておくことは大切なことといえます。「心の病気になるのは信仰が足りないからだ」と言われる方が結構います。例えば、うつ的な症状が出てきた時、「もう教会に行きたくない」と口にします。その言葉を健康な人が聴きますと、すぐに「そんなことを言ってはいけない。もっと信仰を持ちなさい」と励ますことが多いのです。しかし、聴き手の方が心の問題として理解しているならば、ずいぶん違った応答ができるのです。うつ状態になると、教会に行きたい思いがあっても行けません。魂は神に救いを求めているのですが、心が病んでしまっているために力が出ないのです。その時には、やはり休養を取ったり薬を飲んだりして脳を正常な状態に回復させなくてはなりません。それを信仰の問題として回復させようとするところに問題が生じます。時には、信仰によって魂が回復して、心も回復する時があるかもしれませんが、できない時もあることを知っておく必要があるのです。

キリスト教カウンセリングは、特に「魂の配慮」を考えます。一般のカウンセリングは「心の回復」だけを考え、自己回復を目指して行きますが、キリスト教カウンセリングは、自己実現ではなく、その人が絶対者である神としっかりつながって生きて行けることを目標とします。その様な意味で、これは「伝道」であり「牧会(魂の配慮)」でもあると思います。

ここで、「魂」がなえてしまっている人との関わりを持つ時、注意しなければならない点があります。それは、助けようとしている人自身が、「自分の力で人を救うことができない」としっかり受け止めなければならないことです。自分が何とかしようとするあまり自分自身がつぶれてしまうからです。それを理解した上で、主の助けを求めつつ自分が福音を携えて関わるのです。ある時には、医療、福祉機関などの専門家の助けを借りつつ、主の御業を信じて関わって行くのです。

信仰者は、自分自身が神によって支えられていることを受け止めているかがいつも問われています。私たちが毎週の礼拝を大切にする理由もここにあります。礼拝において自己が砕かれ、無力さを知る中で、ただ神によって支えられていることを知るのです。ここにキリスト教カウンセリングの基本があると同時に信仰者の歩みとしての基本があるのです。